環境の差
育った環境の違い、というものの差を、利尻に住み始めて激しく感じた。
私の家庭は商売人、父の内装の仕事は建築ブームにあやかり、私が子供の頃には景気も良く、何不自由ない暮らし。
小学校に上がる頃にはバレエ、ピアノ、お習字、水泳教室、と、習い事三昧の日々。
外食だってしよっちゅうだし、欲しいおもちゃはなんでも手に入れた。
かたや、同じ年の夫は・・・
物心ついた時から、昆布干しの手伝い。
おもちゃなんて、よほどのことがなければ買ってはもらえない。
習い事なぞ、利尻にはない。
いつも話を聞くたびに、見てきたもの、感じてきたことの違いを思い知る。
そんな二人が、いたって平和に暮らしていけるのもまた不思議な話だ。
違いは、「違い」であって、「間違い」ではない。
噛み合わない点があるときに、この経験値の違いに思いをはせるだけ。
私が一生懸命どうやって儲けようかと考えていた頃、夫は風を読んでいた。
私がバブル期に六本木で遊び歩いていた頃、夫は既に経済的に家族を支えていた。
例を挙げればきりがないが、とにかく何から何まで、違う。
ことごとく、違う。
出会いとは本当に不思議なものだと思う。
不思議すぎる偶然
一番不思議なことは、横須賀にあった。
ちょうど私が高校に入った頃、近所の山を切り開いて新興住宅地が造られた。
「はげ山」と呼ばれていたその山を切り開いたのは、出稼ぎでやってきた、今の夫だったのだ。
初めて実家に行った時に、見覚えがある、ということで発覚した。
出稼ぎの最中、風邪をひいて大きな病院にかかった、と言ってたのは、父が運ばれて亡くなった病院だった。
衝撃的!
こういうことがあると、「縁」というものの存在を否定できなくなる。
どこかですれ違ったとしても、人生で必要な人には、出会うべくして出会い、別れるべくして別れる。
そのすべては、完璧なタイミングで行なわれている。
自分も年齢を重ねて、お別れという機会が増えてきた今、本当にそう思う。
重要であることほど、自分では何も決められないことがる。
宇宙はそんな仕組みになっているのだ、きっと。
起こるすべてのことに、意味があるのだ。
たとえ今、自分がそれに気づかなくとも。
点と点は、後から繋がるようになっている。