はじめに
そもそも私は横須賀生まれ。
住んだことがある場所は、東京、横浜という、生粋の関東人。
そんな私がなぜ、今こうして利尻島で暮らしているのか。
その理由は実は定かではないのだけれど、きっかけだけは明快。
2011年3月11日、東日本大震災だ。
あれからもう5年が過ぎた。
そろそろ自分の歴史を振り返ってもいいだろうと思う。
そんな時期が、やってきたのかもしれない。
3.11当日
私は当時、藤沢市でマッサージのお店をやっていた。
離婚という大事業を乗り越え、自分のやりたい仕事を手に入れた私は、横浜のマンションに住み、優雅な独身生活をエンジョイしていたつもりだった。
そんな価値観が激変したのが3.11だった。
被災したのは、藤沢の古いビルに入っている書店。
揺れるとすぐに、本棚から本が落ち始めて、店内は騒然。
阪神淡路大震災を経験していた人は、泣き叫んでいた。
こりゃ、尋常じゃない。
店員さんの誘導で、止まったエスカレータでとにかく外に出た。
外も騒然、ビルの脇に設置されたテレビに、みんな集まっているそんな時にも、余震が襲ってくる。
とにかく帰ろう!
大渋滞に巻き込まれ帰宅すると、マンションのエレベータは止まっていた。
もちろん、電力頼みの駐車場も使えない。
都会では、電気が止まっただけでこんなにも生活できなくなってしまうのか、と実感した。
幸いなことに、我が家では被害はなく、留守番していた犬たちも無事だった。
それでも私の心には、なんだかモヤモヤしたものが渦巻き始めていた。
本当に、この生活でいいの?
せっかく手に入れていたマンションには、ただ寝るために帰るだけ。
安否確認が必要な家族すらいない。
その事実が急に私に押し寄せてきて、不安にさいなまれた。
計画停電に入ったこともあり、しばらくは仕事をする気にもなれず、家に引きこもってずっと東電会見を見る日々。
テレビとネットとでは、全く情報が違っていたことにも恐怖を感じた。
Ustreamのリアルタイムで流されている会見と、テレビでの会見では受ける印象が全く違ったのだ。
この国は、大事なことは隠すのだ、と本気でそう思った。
思考回路の転換
この国では、大事なことは隠される。
ということは、自分の身を守るのは自分だけ、という意味なのだと、その時の私は解釈した。
これから先、女一人で生きていくことに、急にそれまで感じたことのない不安と寂しさが襲ってきた。
優雅な独身生活だったはずなのに、蓋を開けてみればそういうことだ。
手に入れたと思っていたマンションだって、ただローンを払うためだけに働き続けねばならない。
仕事が忙しくなればなるほど、家になどいられなくなるのに、だ。
よく考えれば、これほど本末転倒なことはない。
商売人の家庭で育った私は、とにかく経済優先の生活をしてきた。
そんな価値観が、なぜかこの時、ひっくり返ってしまったのだ。
それも今にして思えば、政府のおかげともいえよう。
原発の状況をひた隠しにしてくれたから。
当時、私が感じたままに「原発が危ない」などと言おうものなら、母や弟家族には変人扱いされた。
とっくに爆発していたのに、だ。
テレビしか観ない彼らには到底理解できない、いや、知りたくないことだったのだろう。
少数派の友人はわかってくれたが、私の身近な人間には理解してもらえなかった。
誰かに理解してもらおうとするよりは、自分を変える方が早い。
だから生き方を変えようと思ったのではなく、自然にこう考えるに至った。
日本は終わった、これからは、自給自足じゃん!!
そんな自分の思考回路が、今では笑える。
良いか悪いかは別として、いつだって物事を極端に捉えてしまう、私の悪い癖。
そして、思い立ってしまったら行動は早い。
これもまた悪い癖なんだよね。
兎にも角にも、そんな風に思い至った私は、自給自足をするための行動に打って出た。
それは・・・
安直な考え
そうだ!農家にお嫁に行こう!きっと人出不足で悩んでいるはず!
なんという安易な考えだと笑われても構わない。
当時の私は真剣だった。
そして、場所はなぜか北海道と決めた。
農家 北海道 お見合い
そんなキーワードでググってみた。
たくさんの情報にはヒットしたが、やはり農業を営む家庭では、跡継ぎが必要なのだろう。
年齢条件が私には不適合な案件ばかり。
40歳を超えると、急に需要がなくなってしまっていた。
ここでもまた、思いもよらぬ現実が、目の前に突きつけられていた。
思いこんだらくじけない
狙っていた農家がダメそうだ、そんなことでくじける私ではない。
すぐにこう考えた。
ん?漁師ならどうよ!
もはや支離滅裂。
これまた、今考えれば漁師では自給自足できないことに、なぜ気づかなかったのか。
不思議なことなのだけど、何か新しいことを始めると、どんどん新しい扉が開いてくる。
その時に選択できる道はたくさんあるけれど、どこかスイスイっと進める道があるのだ。
うまくいく物事、ってのは、こうやってとんとん拍子に進んでいくのが常。
私の人生経験がそう語りかけてきていたので、この支離滅裂さも全く気にならなかった。
そして見つけたのが、利尻の漁師のサイト。
マジなのか冗談なのかもわからない「仲間のお嫁さん募集」に、今の夫の顔写真を見つけた。
それがさ、どこか似てたんだよね、亡くなった父に。
よく見れば全く似ていないのに、第一印象がそうだった。
だから悪い人ではなさそうだ、と思ってすぐに連絡を取ったのが始まりだ。
ところで、利尻ってどこよ?
とググるまでは、その存在場所すら知らなかった未開の地に、とにかく行ってみることにした。
地図で見てびっくりしたけど、「ま、いっか」と深く考えなかったのもまた、神様の采配なのだろうか。
考えていたら、こんなところで結婚などありえない、と、即却下なはずだもんね。
通るべきだった道
それにしてもさ・・・
Google先生、マジすごい。
横浜のじゃじゃ馬娘と、利尻のオーガニック漁師を結びつけてしまうんだから大したもんだ。
どこでどう検索してこうなったのかは、今となってはわからない。
きっと同じ道は通れないと思う。
何かの力が働いて、出会うべくして出会ったのだろう。
そう思わないとやってらんない。
かくして私は、これまたとんとん拍子に縁談が進み、今の夫と結婚すると同時に利尻に移住した。
東日本大震災から半年、2011年9月のことだ。
あれから5年
「3年過ごせりゃ大丈夫」と、島の人に言われたが、おかげさまで無事に5年が過ぎた。
こうしてまとめてみても、きっかけと流れは理解できるのだけれど、私が今利尻にいる理由は、わからないままだ。
でも、理由がわからなくたって、何も困らない。
インターネットの正体がわからなくても、なんだかんだで使いこなせるのと一緒だ。
わかってから行動しよう、なんて思ってるうちに、どんどん時間は過ぎていく。
そうなるよりは、とにかくやってみることだ、と思う私の性格は変わっていない。
どこにいても、一生懸命生きていれば、あた新しい扉が開くはず。
今までがそうだったように、これからも。
今、自分がいる場所が、世界の中心なのだ。
そう思えなきゃ、こんな最果ての島で、よそ者は暮らせないんだよ。